平日は、夫と子ども3人、計4人の弁当を作っている。
最初は、フリースクールに通う、小4息子1人だけだったが、そのうち我も我も・・と。
小6娘と、中3息子は自宅にいるのだから、弁当はいらないはずなのだが、ご要望があった。
家にいる2人の昼食は
「冷蔵庫と鍋におかず、炊飯器にご飯あるから、適当にどうぞ~」
と言い放つ母に従い、冷蔵庫や鍋を開けたところで、朝と何ら変わっていないおかずが、目に入るのみ。
弁当の要望は、少しでも、目新しさを求めたのだろう。
確かに、お弁当って、容器にいろいろ上手にキュッと詰まっているのがいいんだ。
お弁当に入れた具材を作った、フライパンとか鍋から、それぞれ皿に出して食べたって、味は変わらない。
なんだけど、そんな具材を容器に詰めて『お弁当』と言う体裁をとると、美味しそうに見えるのだ。
そして少しだけ特別感もあったりして。
だが、間違ってはいけない。
お弁当に美味しそうとか、特別感を抱くのは、料理上手の方が作ったもの。
ズボラな面倒くさがりが作る弁当は、なんたって中身は、前日や朝食の残りがほとんど。
そこに、日によって冷凍食品やら、魚、卵が入ることのみが目新しいといえば、目新しい。
詰め方だって、雑。
よって、毎度、変わり映えしない、雑な弁当が出来上がる。
でも、料理上手のお弁当は、やっぱり憧れるので、おかずを入れるカップを、色のついたものにする。
もちろん、ケチなので洗って何度も使える、シリコン製。
ズボラは、たかだかそんなことでも、料理上手に近づけた!SNSで絶賛の弁当にソックリ!・・そう思い込む。
ちなみに、家族に誉められたことはない。
それでも、思い込むというのが肝心。
さて、持参した弁当が、夜になっても洗い物に出てこないというのは、あるあるだろう。
我が家も、会社、フリースクールに行く、夫と小4息子がそれ。
しかし、その点に関しても、代り映えしない弁当を作り続ける、強心臓のズボラは、対処が違う。
金切り声を上げて、注意するなんて言う労力は使わない。
「弁当箱がないため、明日の弁当作成は中止します」
「弁当箱がないため、2リットル保存容器を代用します」
そう彼らに、静かに申し渡す。
そうすると、弁当箱を自分で洗いはじめる。
今のところは。
さて次は
「弁当は、もういらない」
そう最初に言い出す勇者は、誰だろう。