少し前のこと。
実家に届け物をして、そのまま母とお茶を飲みながら、雑談をしていた。
「そういえば、私、昔に恥ずかしい思いをしてね・・」
と母が話し始めた。
それは、今から60年以上も前、母のかかりつけの田舎町の歯医者でのこと。
かかりつけの歯医者は、小さな個人病院。
玄関すぐ横に、小さな待合室。
玄関をあがって正面、そのすぐ先に、ドアがなく、のれんで仕切りがされただけの診察室が1つだけだった。
当時、母は、思春期真っただ中の多感な高校生。
その日、高校生の母が、病院のドアを開けると、玄関たたきには、乱雑に広がった患者の靴。
その先の、ほんの数センチ段差のある上がり框には、スリッパが履きやすいようにと、横にズラリと並べてあったという。
自分の靴を脱ぎ、患者の靴が広がっているのを挟んで、上がり框までは、足を広げても、ギリギリ届かない距離。
多感な高校生の母は、人の靴の上にのっかったり、人の靴を無理やりどけて、上がり框まで行くのはイヤだなと思った。
そこで、自分の靴を脱ぎ、そこから玄関たたきにひろがる靴の上を、ちょっとジャンプして、上がり框に行くことにした。
高校生の体力でなら、こんなことは朝飯前どころか、目をつぶって踊りながらでもできること。
余裕しゃくしゃくで、上がり框までジャンプをしたところまでは良かったが、着地点にあったスリッパに足が滑って、尻もちをついたそう。
さらに、よほどに、その病院の床は磨かれていたらしい。
野球のスライディングよろしく、玄関横の待合室を通り抜け、そのまま正面の、診察室へ滑り込んでいった。
「急に、スカートをまくり上げた高校生が滑り込んで来るんだもんねぇ、先生も、治療中の患者さんもびっくりしたと思うのよぉ」
と、母。
「でもね、先生が笑いもせずに " 名前を呼ばれるまで、入ってこないように!" って」
そう言われて、母は待合室に戻り、待っていたという。
「そこの先生さぁ、戦時中、軍医さんだったのよ。やっぱり、軍医さんって、厳しいのよねぇ」
そう言って、母は、話を終えた。
私は慌てた。
「いやいや、結論は、軍医とかそう言うんじゃなくて」
母は不思議そうに慌てる私を、お茶を飲みながら見ている。
「そんな醜態を病院中の人に見られた後で、お母さんは待合室に戻ったの?そこで待って治療受けたの?私なら、絶対ムリ!!」
私がそう言うと、母は
「当り前じゃない。そのために来たんだもん。歯医者、近所にそこしかないし」
そう言って
「ホント恥ずかしかったわぁ、でもそこの先生怖くてさぁ、軍医さんだから・・」
と続けた。
どうも『軍医さんだから』を、話の締めにしたいらしい。
怖い元軍医の歯医者は、そのスライディングについて、その後、母に何も言わなかったという。
昔は怖かった母が、こんな自分の失敗談を話す日がくるなんてなぁ。
私は、玄関たたきでジャンプするのは、やめようっと。