粋と野暮天の さじ加減
4~5年前になるだろうか。
欧米の俳優だか歌手だかが 自分の幼い息子と外出した際に、パパラッチに撮られた写真が物議をかもしている・・。そんなニュースをみた。
物議をかもした理由は、その幼い息子さんがスカートを履いていたから。
親が子供に無理矢理そんな恰好をさせて、子どもへの虐待だ、子どもの尊厳を踏みにじっている、母親失格・・などと散々言われていた。
そのニュースを見て、私はギョッとしてしまった。何故って、まったく同じことを私も当時3才の息子にしていたから。
しかし、私は無理矢理させたわけではない。息子を虐待をしたつもりも、尊厳を踏みにじる気もさらさらなかった。
だって、息子が「姉のピンクの帽子と靴、水色のワンピースを着て、どうしてもスーパーにいきたい」と泣いて言うのだから。
虐待どころか、世間の常識を十分知ったうえで 彼の意見を最大限尊重した私を褒めてほしいくらいだ。
写真を撮られた有名人のことも、その国の常識も知らないが、日本よりも 個人が尊重される印象のある欧米で、そんな論調があるのかと、それも驚いた。
今ほど、ジェンダーレスということが表にでていなかった?とはいえ、そもそも、その有名人の息子さんがスカートを履いた経緯は、文句を言った人のほとんどは知らないはずだ。
どこの国にも、暇人がいて、有名人は一挙手一投足がいつも観察されているということか。
さて最近、オンラインで何かをすることが人気だ。
私も、オンラインでの講演やお話会などの 開催日時が一目で分かるサイトをみて、何度か申し込んでいる。
その話を聞いていると、心が軽くなったり、まったく知らなかったことを教えてもらって勉強になるから好きだ。
以前は、本を買ったり、講演場所まで出向かなくてはならなかったのに家にいながらにしてできるのは、本当にありがたい。
それにしても思う。
日本人はシャイだとか自己表現が下手だとか言われているが、そのサイトにある講演会だのの何と多いことか、主催者は老若男女問わずだ。
皆、自己表現がしたくてたまらないのである。
このブログもそうだが、SNSやYouTubeにしたって、要は自己表現「私を見て!」なのだ。
もうだいぶ前に亡くなった私のかなり年上の友人は「我が」「我が」を嫌った。品がないと言った。
ニュースをみながら「こりゃ粋だね」「まったく野暮天だ」そんな言葉で片付けることが多かった。
みんな誰かに自分を見て欲しい、だけど、放っておいても欲しい。
自己表現する側と、それを見る側の それが、粋か、野暮天か。
その、さじ加減が難しい。