迷いと決断と猫背
中学3年の夏。私は「普通高校に行こう。行く」と決断をした。
中学2年の秋から、私は1日も学校に行っていない いわゆる 登校拒否児童であった。
登校拒否のきっかけは、よくある話。人間関係である。
中学2年になって同じクラスになった友人2人と私を含めた3人が、仲良しグループであった。
今となっては、バカらしくて笑ってしまうが、当時 中学生の女子で仲良しグループに所属していないことは、いわゆる「死」を意味するほどの重大事項である。
「私は、このクラスのどこかに居場所がある。決して1人ぼっちではない」ということを対外的に示さねばならなかったのだ。
この3人グループで、移動教室もいっしょ。休み時間もいっしょ。給食もいっしょ。帰り道もいっしょ。いつもいっしょ。
3年生は、クラス替えなしの持ち上がりだから、このグループに入っていれば 残りの中学校生活は安泰だ!!そう思っていた。
ところが、6月になって ほかの仲良しグループから追い出された子が なんとなく仲間に入ってきた。
話してみると案外気が合うので、そのまま4人グループとなった。
最初は楽しかったが、そのうち 後から入ってきた子が 私の悪口を他の2人に言うようになった。
私に思い当たることはない。理由を尋ねても「そんなことは言っていない」の1点張り。
そのうち、悪口を聞かされていた2人も 私を避けるようになり 仲良しグループで3対1の構図になってしまった。
もともと「超」のつくほど大人しい私。「それなら他の仲良しグループに入ろう」と割り切って他をあたるなんてことはできるはずもない。
そうこうしているうちに、私の悪口はクラス中に広がった。
「うちのグループには来ないでね」そう 面と向かって言われたこともあったが、大多数からは無視をされた。
私はただただ黙ったまま、1言の反論もできないまま2学期の運動会のあとから 学校に行けなくなった。
中学2年の秋。高校受験のために1番大事な時期が始まっていた。
当時、いまほど「登校拒否」というのは浸透していなかった。学校に行かないというのは、いわゆる「素行の悪い生徒」「不良」がするものであるという私の周囲の認識であった。
事実、通っていた中学は3学年で500人近く生徒がいたが 不良でもないのに登校拒否をしていたのは、私1人だけ。周囲から見ると「奇異」な存在であった。
学校に行けなくなってからの朝は恐怖しかなかった。
目をギュッと瞑って、身体をこわばらせて布団の中にいる。眠っているわけではない。朝3時前から起きてそうしている。
「今日こそは学校へ行こう。いや、行かねばならない」でも、身体は岩のように動かない。怖い、怖い。助けて。
朝 起きないことに、母親が怒る。
「情けない」
「今がどんな時期か分かっているのか?」
「人間関係くらいで休んでいたら、この先の人生どうなる?」
「ご近所でなんて言われているか知ってるの?みっともない」
母に布団から引きずり出されても、私は必死になって布団をつかみ 泣きわめいた。
そうかと思えば、布団から起き上がれたが 制服がかかったハンガーの前で立ちつくし、震えが止まらず過呼吸になったことも。
母親が諦めて、学校へ欠席の電話をしてくれると 「今日は休める」と確定して少し安堵。
それでも「怠け者の恥さらし」と母に言われ続けた。悲しかったが、学校に行くより ましだった。
週に何度かの夜、私は塾へ行った。別に勉強が好きなわけではない。
登校拒否児のくせに塾に通えた理由は、塾には通学先の中学の生徒がいなかったから。
誰も私のことを知らないそこでは、誰も私をいじめない。私は、元気でおしゃべりなどこにでもいる普通の女の子になれた。
2学期と3学期の通知表は、すがすがしいものだった。オール1にくわえ担任からのコメント欄も空欄。私は他人ごとのように、それを眺めた。
母は怒り泣いた。そして「あなたを虐めたやつらが、普通高校に行けるのよ!?なのに、いじめられたあなたは このままじゃどこの高校にも行けないわよ!!」と言った。
母の言葉が、登校拒否になってから初めて 私の心に少しだけ ひっかかった。
中3の4月になって、市の施設で登校拒否の小中学生を対象に 今でいう「フリースクール」があることを母が聞いて、私はそこへ行くことにした。
私の生まれて初めて自分でおこなった「決断」だった。
そのフリースクールには、小学校低学年から中学3年までの女の子ばかりが3~4人。
フリースクールに出席した日は、学校を出席したとカウントされる。でも、来てもいい。来なくてもいい。遅刻してもいい。早退してもいい。勉強してもいい。しなくてもいい。
お互い自分のことを話さないが、同じ傷を心に負った者が集まるそこは、塾とは違う居心地の良さがあった。
フリースクールでのお昼は、もってきたお弁当をひろげて 生徒みんなで輪になって自分の好きな曲を録音したカセットテープを、かわるがわるに施設のカセットデッキで聴くのが恒例だった。
曲を聞きながら「これ、好きなの?私もすき」「聴いたことある。これ、なんて曲?」小さな声で遠慮がちに交わされる会話は、ぎこちなかった。でも、どこか安心感があった。
しばらくして、フリースクールのスタッフの人に「ここは中学3年までしか来られない」ことを聞かされた。
「あなたを虐めたやつらが、普通高校に行けるのよ!?なのに、いじめられたあなたは このままじゃどこの高校にも行けないわよ!!」母のあの言葉が思い出された。
私は、中学3年の6月に、保健室登校を始めた。フリースクールにはもう戻らない。自分で決めた。
保健室登校と行っても、生徒が登校が終わる9~10時ころに誰にも会わないように私は登校し、授業が終わり休み時間になる前に帰る。ものの数十分の滞在時間。
それでも、必死に手を通した制服は鎧を着たかのように重かった。学校へ行く足は震えた。それでも、学校へ歩いた。
立ち止まったら、来た道を振り返ったら、もう登校は二度とできなくなると思ったから。
普通高校へ行きたいと思った。塾での私のように、フリースクールでの私のようになりたいと思った。
2学期から教室に入って、皆と同じ時間に登下校をした。教室に入った初日の光景は、いまだに覚えている。
「私の席はどこ?」そう言ったら、しばらく教室中があっけにとられた顔をしていたっけ。
数か月ぶりに戻った教室は優しくなかった。中3の2学期。高校入試まであと半年きったこの時期。
小テスト1つに、隣の人間が何点取ったのかが気になって仕方ない。1人でも多く蹴落とさなくてはいけない。ライバルを減らさなくては。教室がピリピリしていた。
「休んでいた間、塾には通っていたんだって?」
「学校に来ない間、塾の勉強ができてよかったよね~」
「テストの点がよくても、休んでいたから普通高校は無理でしょ?まさか受験なんてしないよね?」
私は、心を持たないロボットになることにした。
どんなときも背筋を伸ばした。
涙が出そうなときは、口を真一文字にして歯をこれでもと かみしめた。
周りにいるのは、人間ではない。カボチャかスイカだと何千万回も思い込んだ。
その頃、フリースクールの子たちが全員学校に戻ったと聞いていた。
きっと、今 彼女たちも歯をくいしばっているはず。
私は、ここの生徒が誰もいない普通高校に行きたかった。どうしても行きたかった。
当時、少し遠くの私立中学に通っていた妹が 自分の隣の学校がいいのではないかと勧めてくれた。
見学に行った。誰も私をしらない遠い学校。雰囲気も一目で気に入った。
「登校拒否していなかったら、こんな偏差値の低い学校なんて・・」と言っていた母も、気に入ってくれた。
入試の日は、父が 私の知る限り初めての有休をとって一緒に行ってくれた。
心配性でせっかちな父は「もし、当日交通機関が止まったら大変だ」と、夜中に起こされて 夜も明けぬ頃に学校に到着をしてしまった。
学校の守衛さんが「いくらなんでも早いよ」と笑いながら 父と私に守衛室でコーヒーを出してくれた。
あまりに早く家をでてきたものだから、入試が始まるころには、お腹が空いて空いて「グーグー」と派手にお腹の音をならしながら問題を解く羽目にもなった。
でも、そんなことは気にならなかった。守衛さんのコーヒーとお喋りが良かったたようだ。
私がペーパー試験を受けている時間、父は別室で親の面接を受けていた。
「お前もか?お父さんも、お腹がなるのを止めるのが大変だったよ」と、昼になって講堂で母の作ってくれたお弁当を食べながら2人で笑った。
昼休憩をはさんで、今度は子どもの面接。緊張しなかった。「何でも答えてやる」と腹がくくれた。父と笑いながら食べた弁当が良かったようだ。
そして、しばらくして合格通知が来た。
もう中学校には用はなかったが、意地で休まずに最後まで登校した。
最後まで、誰も私に謝らなかった。
卒業式は出席したはずだが覚えていない。覚えているのは、その日のうちに中学校のものをすべて捨てたこと。サイッコーに気持ち良かった。
高校は、制服も気持ちも 羽のように軽かった。毎日、お腹をかかえて笑った。
お陰で、猫背になってしまった。
Sponsored by イーアイデム