4~5年前のこと。
幼稚園バスの同じ停留所の母親と 子どもの習い事について 立ち話をしていた。
『子どもの習い事は、ある意味 親の金と時間と労力をドブに捨てるようなもの』私がそう言ったら
「お宅は、お金持ちなのね~」と、相手の母親に言われてしまった。
「いやいや、そうじゃないんだ」と、あわてて説明したが 結局 伝わらなかった。
どうも、私は言葉の選択・話が下手くそだ。
本当は こう言いたかった。
私が思うに 子どもの習い事は「子どものため」という名の「投資」である。
この投資は、難しい。
投資者の思い描く結果がでるかどうか分からないし、なにより結果が すぐに出ない。
投資金の回収は 経験上・・難しい気がする。
そして この投資のもっとも難しいのは、何をもって成功なのか、失敗なのかのハッキリした基準がないこと。
私自身、子どものときは 習い事をさせてもらった。
習い事は、母が家計をやりくりして捻出したお金である。大変であったろう。
母は、その回収を求めた。結果を求めた。
求めた背景には 自身の兄弟の仲がわるいことがあった。
兄弟の子どもより、我が子が劣るという事態は 母にとって ガマンならないことであった。
同時に ママ友の子どもに負けることも、ガマンならなかった。
母は、私にライバルを そのつど設定。
そして「○○ちゃんはできるのに」が母の口癖になった。
私が ライバルに奮起し、お金を工面してくれた両親に恩返しをしようという殊勝な子どもなら良かった。
私は、完全に萎縮してしまう子どもだった。
どうしたら習い事をやめられるか、母に失敗を怒られずに済むか。反面、どうしたら母に誉められるか。
そればかり考えていた。
だから、習い事は辛かった。
母の思うような結果もだせなかった。
できなかった自分への情けなさと、母へのわだかまりが 長い間残った。今も、本当はある。
だから、親になった私は 子どもに使うお金は 回収しない、できないものとした。
ライバルは設定しないことにした。
子どもの習い事には、どれほど進度が遅かろうが 本人が続けたいなら、困っていないなら いっさい口を出さない。
困っているとき、やめたいと言ったときだけ、 本人と教室の先生と話す。
そう決めたから、だから 冒頭の『習い事の金は、ドブに捨てたと同じ』という言葉になってしまった。
でも、本当は心配。これでいいのか?
「子どものため」という名の、色々な情報が 私の目に耳に 毎日とびこんでくる。
もっと、積極的にかかわったほうが良いのか?
母が私にしたことも、今なら分かる。そういう時代・風潮もあったのだろう。
勉強して、厳しくしてもらって良かった面も多々ある。
でも、私は やっぱりしたくない。
私の選択は「子どものため」という名の 単なる母への当てつけなのかもしれない。
難しい。わからない。何が正しい?