吾輩はズボラなるままに

15才、中1、小5の3児のママです。子ども全員明るくニート&不登校中。ズボラ万歳で過ごしています!

図太い母娘

3月末、突然

「私、中学校には行ってみようかな」

登校宣言をした、中1娘。

 

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あれから、2週間超。

 

彼女は、今までのスタイルを、登校しないスタイルの維持を決めた。

 

おそらくだが、中学校の制服やらを、急遽買いに行った時点が、彼女の登校の意欲のピーク・・いや、買いに行ったことで意欲がなくなった・・と、私は見ている。

 

制服をあれこれ試着したり、採寸されたりしていた彼女の表情は、本当に暗かったから。

 

試着する彼女のそばで、それを分かっていながら

「制服買うのは、やめようか」

と言えなかった私は、やはり浮かれていたのだろう。

 

娘に、春から、新しい居場所ができるのではないかと期待していたのだろう。

 

結局、制服が出来上がっても、彼女は、見向きもせず。

 

制服などの一式代は、正直イタイ。

 

だが、そんな期待と浮かれ気分の裏で、彼女の登校宣言を、真に受けていない私もいたお陰で、不登校継続にも、私にはダメージはあまりなかった。

 

不登校継続のお陰で、ちょっと良かったこともある。

 

実は、登校宣言の前に、娘と平日に観劇をしようと、チケットを取っていた。

 

もしも登校していたら、チケット無駄になるところだった。

 

娘を心配していると言いながら、こんなことも心配している私は、そうとうに図太くて図々しい母親だ。

 

彼女は、本当に行きたいところ、したいことには、即答する。

 

逆に

「ちょっと考える」

と言ったときには、ほぼ NO である。

 

観劇は、即答した。

 

食堂の皿洗いや、自治会の手伝い、父の入院先への面会には、即答し、それらは続いている。

 

彼女曰く、自分の性格は

『負けず嫌い』

『やると決めた時は、絶対やる』

 

たしかに、昔

「自転車を補助輪なしで乗りたい」

「縄跳びを上手に飛びたい」

「字が書けるようになりたい」

と言い出した時、彼女は、こちらが呆れるくらい練習をして成し遂げた。

 

「だけど、最近は『飽き性』の性格が、前面にでちゃってるけどね!」

自分の性格を自己分析した彼女は、自分の今を、そう付け加えて、笑った。

困った2人、サッカー観戦へ行く

夫と2人で、柏レイソルの試合観戦に行った。

 

行き先は、相手の東京ヴェルディの本拠地、調布。

 

ここは、子どもが生まれる前に1~2度行ったか??とにかく久しぶりの場所。

 

夫との観戦も、昨年末以来。

 

当日は、寒くも暑くもなく、風もほとんどない快晴の、観戦日和。

 

観戦席は、毎回夫に任せているのだが、今回は応援団の一団の中の席。

 

前後左右、試合前の選手のウォーミングアップ時から、皆が大声で飛び跳ねて応援するほどの熱量。

 

なるほど、今回は声を出して、ストレス発散にも、もってこいというわけだ。

 

試合は、終始押されている中先制され、後半にやっと追いついたが、反撃もそこまで。

 

1-1の引き分け。

 

90分立って、声を出し、手を振り、手をたたき、跳ねる代わりに爪先の上げ下げを繰り返して、なかなかに疲れた。

 

片道1時間以上の電車移動だったが、運よく座れてありがたや。

 

地元の駅で、久しぶりに夫婦で居酒屋へ。

 

普段話さない2人が、いろいろ話をして、久しぶりのお酒が、やけに進んでしまった。

「2件目行きたいよ~」

と言ったら、下戸の夫は

「もう勘弁してくれ」

と首を振り、酒豪の私は

「ようやくエンジンがかかってきたというのに」

と口をとがらせる。

 

昔からの、いつものやりとりをして、会計へ。

 

それから、留守番の子どもたちにお弁当を買い、桜並木のしたを歩きながら家へ向かった。

 

最近は、家で1人で飲んでいると、グラス1杯で頭痛がしていたのに、その日は、その数倍飲んだのに、無症状でまだまだ元気。

 

サッカー観戦で心身のストレス発散になったのが良かったのか、夫と話をしながら飲んだのが良かったのか。

 

家に戻ると、何故だか話さなくなる夫婦は、また元通りに話さなくなった。

 

まったく変な2人だ。

 

まったく困った2人だ。

お手伝い成長記録

 

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今年の2月から、月に1度食堂を開くそこへ、中1娘と一緒にお手伝いに行く。

 

これで3度目。

 

お手伝い内容は、食堂が終わるころに、洗い物をしたり片づけをすること。

 

ちょっと慣れてきた。

 

相変わらず、スタッフの人からは大歓迎を受ける。

 

嬉しい。

 

娘も、このお手伝いに行くことが楽しい様子。

 

お手伝い先では、食堂もしているが、庭先に不用品が置いてあり、自由に持ち帰ることができる。

 

その庭先を片付けていると、娘は1つの小ぶりのカバンを見つけた。

 

「これ、持って行ってもいいのかな?」

と私に尋ねてきたが、私も、まだ、ここの勝手がわからない。

 

「スタッフの人に聞いてみたら?」

と返事をしたが、娘はうつむいて黙っていた。

 

だが、そのバッグは離さない。

 

私がスタッフの1人を呼び止め

「このバッグなのですが・・」

と言うと、スタッフの方が

「気に入った?どうぞ、どうぞ持って行って!」

 

うつむいていた娘が、その言葉に、少し顔を上げてニッコリした。

 

そのスタッフの方が

「ちょっと待って。いいものがあるんだよね・・」

と言って、奥の部屋へ。

 

戻ってきた、スタッフの方の手には、かわいい動物柄の2種類のパスケース。

 

「私が持ってきたの。今日、庭先に置こうと思ったら忘れちゃって」

「両方、持って行ってもいいよ」

未使用だと言うビニールに入った2つを、差し出した。

 

さらに

「無理にもらわなくていいのよ」

「いらなかったら、次回、庭先に置いておくから」

と、何度もそう言って。

 

私の後ろにいた娘が、出されたパスケースへ歩を進めた。

 

こういう場面、昔の私なら、娘を差し置いて

「あら~いいじゃない、ほら、貰っておきなさい。あなた、好きでしょう?すみませんね~」

なんて、しゃしゃり出ていたが、ここ数年で、1歩さがって黙っていることを学んだ。

 

娘は、出された2種類のパスケースを、しばらく見てから1つを選んだ。

「もう1つもいいのよ」

と言われたが、小さな声で

「大丈夫です」

と、ぺこりと頭を下げて、うつむいたまま私が持参したカバンに、それを入れた。

 

手伝いが終わり、食堂の扉を閉めると、娘は

「やった~!いいの貰っちゃった!!」

「ほら~、みてみて、かわいいんだよ!!」

と、貰ったパスケースとカバンを、私に見せながらニコニコの帰り道。

 

娘に、定期券やら、ICカードを使う予定はないが、チャック付きの小さなスペースが、パスケースにはついていた。

 

「そのチャックのところに、お金とか入れたら、ちょっとした買い物に使えるかもね」

と、私が言ったら

「いいね~!!」

とますます、言葉も表情もはずんだ。

 

「この顔を、さっきのスタッフの方の前で見せたらよかったのに」

と言いそうになった私の口だが、寸でのところでストップ。

 

彼女の今日の頑張りを、ムダにするところだった。

 

あぶない、あぶない。

 

今日は、初めて娘が、スタッフの人と会話ができた日。

 

「大丈夫です」

と意思表示ができた日。

 

このお手伝い、彼女の人生のなにか・・何かになると思う。

息子の買い物

中学の場所さえ知らずに卒業をした息子は、進学も就職もせず。

 

晴れて?世間でいうところの

ニート

尾崎豊氏でいうところの

『支配からの卒業』

と、あいなった。

 

その彼が

「買い物行ってこようかな」

と、小遣いをもって、久しぶりに外へ出て行った。

 

今年に入って、彼の外出は2度目?いや、3度目か?

 

15分ほどして帰宅すると、手には、思ったよりも多くの荷物。

 

徒歩5分のスーパーに行ったと言う。

 

袋から荷物を1つ1つ取り出し

「シュークリームが91円で売ってた。オレ、これ好きなんだ」

そう言って、早速にかぶりついた。

 

「(弟妹が)時々買ってきてるのみて、前から、ちょっと欲しかったんだ」

取り出したのは、袋にポケモンのイラストがあるパン。

 

「見てたら、久々に欲しくなって」

真緑の炭酸ジュース。

 

「これは、3人で食べようぜ!」

最後に出てきたのは、18枚入りのクッキー。

 

ちゃんと3で割り切れる数を買ってきてる。

 

そうだ、彼は、こういう『誰かに分け与える』気遣いができる子だった。

 

小学校低学年だったときも、自分のお菓子を、弟妹と分け合っていたっけ。

 

たまに、だけど。

 

しかしながら・・キミ、キミ、何か足りなくないかね?

 

「あら、私の分は、どこにあるのかしらぁ??」

と大袈裟に尋ねてみたら

「あぁ・・店内がさ、暑くてさ、もういられないくらい暑くて・・」

そんな、よくわからない理由で、うやむやに片付けられた。

 

でもいいさ、私は心の広い広い親だから。

 

でもさ、知ってるぅ?

 

世間一般的に、食べ物の恨みって恐ろしいんだって。

 

それと、世間一般的に、女は昔の記憶をよ~く覚えてる生き物なんだって。

入院、今昔物語

父の入院も、2週間目に突入。

 

自宅で骨折をして、救急で入った今の病院には3週間入院して、そこからリハビリをするために転院予定。

 

要は、今の病院には、あと1週間ほどしか居られない。

 

だが、転院先が、まだ見付からず。

 

父は、10年ほど前にガンの告知をされ、それ以来服用している薬を扱っている病院が、なかなかないことがネックのよう。

 

父の前回の長期入院は、20年以上前に遡る。

 

その頃、父は60代。

 

当時、父は入院先から、毎日、自宅に電話をかけてきた。

「あれが欲しいから持ってきて」

「今日の面会は誰が来るんだ?」

 

家族の面会は、毎日が当たり前。

 

挙句の果てに完全看護の病院で、面会に飽き足らず、夜の付き添いを家族に求める始末。

 

もちろん父の病室は、個室ではない。

 

4人部屋である。

 

もちろん当時の父の年齢は、3才ではない。

 

60才過ぎ。

 

結局、夜の付き添い役は、病院から職場が近いということで、私になった。

 

父のベッドの下の床に、ベッドとは名ばかりの担架のようなものに、毛布もなく横たわり、夜中に

「喉が渇いた」

「部屋が乾燥している」

「眠れないからラジオにイヤホンをさして渡せ」

という父の要望を実行する。

 

それでなくても狭い4人部屋で、夜中に見回りの看護師さんが来ると、私は起きて、どかなければならず。

 

翌朝は、そこから出勤。

 

父のわがままは、術後のリハビリも

「傷が痛いから、絶対にしない!」

と頑として首を縦に振らず。

 

ついには、お偉い医師と看護師までもが登場して、説得するが、それをも追い返す、とんでも患者であった。

 

20年経っての、今回の入院は、最初の1週間は1度も連絡をしてこなかった。

 

面会に行くと、目がようやく開いて、話す言葉は呂律がまわっておらず、聞き取れないほど。

 

2週目に入って、ようやくベッドを起こして、目もバッチリ開いて、普通に話せるように。

 

だが、あれだけ好きだったテレビやラジオを

「別に見なくて(聴かなくて)いいや」

 

20年前、あれだけ毎日家族にぶつけ続けた要望も、全くなし。

 

売店で雑誌を買ってくると、最初は遠慮していたが

「お父さんのために買ってきたのよ」

と言うと、ちょっと嬉しそうに

「悪いねぇ、じゃあ、お言葉に甘えて読ませてもらうよ」

と手に取った。

 

「面会は、毎日来るのが当たり前だ」

と言った20年前のセリフも、今回は、なし。

 

毎日、かかってきた電話も、今や面会時に

「お母さんが、お父さんからのメール待ってるよ」

と言って、ようやく携帯を手に取る。

 

面会最後に、父が言う。

「リハビリ頑張るよ!」

 

「その言葉、20年前に聞きたかった」

というのを、かろうじて飲み込む。

 

『いつか自分も通る道』

を面会の帰り道、考える。

オレ、弁当作るぜ!

小4息子が、3日前から始めたこと。

 

それは、フリースクールに持参する弁当を、自ら作り始めたこと。

 

作り始めた理由を、本人は

「そうすれば、お母さんの手間が1つなくなるだろ?」

と言ってくれた。

 

だが、本音は、私が野菜嫌いの彼の弁当に入れていた

『野菜入り』卵焼きとか、

『野菜たっぷり』チャーハンとか、

『ほぼ野菜だけ』ハンバーグに、

うんざりしたのではないかと、私はにらんでいる。

 

まぁ、理由はどうあれ、私の手間が1つ省かれるのは事実なので、諸手を挙げて賛成。

 

初日の手作り弁当が、こちら ↓

シェフのコメント:おにぎらず(もどき)の作り方を知った。豚肉を焼いて、チキンナゲットはレンチン。いい組み合わせの弁当だ。

 

2日目の弁当がこちら ↓

シェフのコメント:サンドイッチの作り方を知った。肉団子(冷凍食品)の解凍もできた。オレ、成長してる。

 

3日目の弁当がこちら ↓

シェフのコメント:サンドイッチの具を炒めた豚肉にした。初めて1人で全部作った。雑になったが、オレが食べるんだから、別にいいや。

 

自ら料理をすることは、大変素晴らしいが、最近、私が出す食事に野菜が入っていると分かったとたん

「オレ、それ食べない。自分で作る。そういう気分なんだ」

と、自分で袋ラーメンを茹でたり、卵かけご飯、冷やしうどん、豚肉の生姜焼き・・。

 

たしかに、私の手間は減るが、彼が野菜を摂取することがほとんどなくなっている。

 

そして、4日目は、フリースクールで、昼食を調理するイベントがあるため、お弁当はいらない。

 

「やったぁ!弁当作らないで済む!ラッキー!」

と喜ぶ、息子。

 

4日目に学んだのは、お弁当作りの苦労らしい。

 

息子よ、これこそが、弁当作りの最大の学びだ。

勝手に捨ててごめんよ

昼夜逆転中の15才の息子が、朝起きてきた私に言った。

「何だか、おかしなことが起こっているんだよね」

 

理由を尋ねると

「この棚にあったノートがなくなって、翌日ノートは戻ってきたんだけど、最初のページが破られていた」

「それから、その近くにあった手紙がなくなっていた」

 

その、おかしなことをした犯人は、何を隠そう私。

 

おかしなことが起こった棚には、3年前から登校しなくなった息子のノートや教科書が、埃をかぶって雑に積み重ねられていた。

 

その棚から、数日前に、私は、ノートを1冊、勝手に持って行った。

 

入院中のメモ魔の父に

「何か、書くためのノートを持っていってあげて」

と母に頼まれたからである。

 

結局、ノートを持って行ったが、父に

「書く気力がない」

と言われて、持ち帰ってきて、また棚に戻した。

 

なくなったノートが、翌日に戻っていたのは、そういうわけ。

 

そして、最初のページを破いたのも、私。

 

そこには、不登校前の息子の字で

『小学6年生になったら頑張りたいこと』

が箇条書きで書かれていた。

 

『勉強を頑張りたい』

『友達を作りたい』・・・

たくさん書いてあった。

 

息子は5年生の2学期に転校して、5年生がおわったときに

「もう登校できない」

と言って、それから小学校も中学校も行かなかった。

 

彼はどんな気持ちで、6年生になったら・・と書いたのだろう。

 

辛くて、そのページを破った。

 

そのノートの近くには、封筒があり、中には手紙が入っていた。

 

宛名書きはなかったが、子どもっぽい柄だったので、誰か子どもが書いたものだと、すぐに分かった。

 

つい、中身を読んでしまった。

 

便箋1枚に、息子をいじめていた3人の子がつづった謝罪文だった。

 

たしかに、そのうちの1人は親も一緒に、秋くらいに自宅にまで謝罪に来た。

 

しかし、3学期の授業参観で、息子は1人ぼっちだった。

 

だから、その手紙を捨てた。

 

息子は、そんな埃をかぶったノートも手紙も覚えていないと思ったのに。

 

息子に、ノートと手紙のことを言われ、最初、私はとぼけたが、やっぱり自首して謝った。

 

息子は

「あの手紙を最初読んだときは、泣いたよ。でも、もう今は忘れたからいいんだ」

「ノートも、じいじが使いたいなら使えばいい」

そう、あっけらかんと言って、また手元のゲーム機に視線を戻した。

 

あの頃、私がもっと学校と戦えば良かった、もっと息子の話を聞いてやるべきだった。

 

胸の奥にしまいこんで、厳重にカギをかけたはずのものが、ポロポロこぼれ落ちてきた。

 

『埃をかぶっていても、本人の承諾なしに動かしてはいけない』

当たり前のことを学んで、ちょっと泣いた日。